古代の地図

都市国家というものがあった時代は、細々と農業を営んでいて、それが成功していました。その後人口が増えると様子は変わります。その都市は国際的になって、知らないところの珍しいものや人間、文化がたくさん集まるようになりました。

特に外部からやってくる文化等に魅了された人々は、それらの知識を書き付けたい気持ちが止められませんでした。これが世界の図を描こうとする始まりだったと言われています。

バビロニアというところでは、地図に粘土板が使われていました。随分昔のものですから円と直線の単純なものですが、そこにはバビロンはもちろんのこと、周辺の湾なども全部つめこまれていました。驚いたのはユーフラテス川も書かれているということです。こんな昔によくもまあ、と思えるほどのびっくりするような出来栄えでした。

しかし文明とは言うものの古代は古代です。今とは考え方が違い、海を越えて陸地が存在しているとは考えられませんでした。その代わり、死後の世界というものがありました。

昔の人は世界を平だと考えていたのは事実です。丸くなっているとは考えられなかったのでしょう。

「世界の果て」がどうなっているのかという考えも、民族によって随分と異なっていたようです。まわりは山なのだと思い込む人もいれば、周りは海しかないと考える人も大勢いたのです。中には「巨人とか動物がこの世界を肩に担いでいる」というファンタジーのような考えもあったのだとか。当時は科学のレベルがそれほど高いものではありませんでしたので、近代になるまではそういったファンタジーも正しいと考えられました。

だんだん色々なことが知られてくると、空の世界がどうなっているのかに関心を持つようになりました。暦という概念もこの時期から出来始めました。同じ特徴の気候が繰り返されているという発見は、自然には何か決まりごとがあるのではないかという研究動機を生み出すことになります。

ギリシアでは哲学だけでなく、自然科学も盛んでした。ギリシアも始めは世界の形が丸いのだと正確につかんでいなかったため、長い間ファンタジーの海が描かれました。その後は幾何学的な研究も盛んになって天文学も発展しました。

  

インドとアフリカを描く

インドは長らくイギリスの植民地でしたから、インドを測量したのは実質的にイギリスでした。支配し始めた当初、測り方はいい加減だったとされます。イギリスにとって、インドの国土を測る目的は、行政上、軍事上の測量に限局されていたからです。

しかし時間が経つにつれ、命懸けの航海で得た測地学を発達させるために、測量の機会を増やしたいと考えるようになり、三角測量も含め、旺盛に測量が行わたのです。

この測量の中では、科学者が驚く事象もたくさん生まれました。その筆頭は、三角測量と天文観測の結果に違いが見られたことです。インドの北部の特殊性は山岳地帯であることですが、その地の誤差の規則性を何がもたらしているのかは、科学者の間で喧々諤々の議論が行われました。

水平角度、基線のといった測定結果にも誤りはなく、仮説として持ち上がったのは、緯度に関する謎でした。緯度は天体観測に頼るほかなかったので、紐に重りを使って星の角度を測りました。この時、地下の密度の差が測定に影響を与えます。つまり鉛直線偏差が生まれます。

この事実については既に科学者も共有していましたが、その共有が徒となり、偏差を余計に評価していたことが後の時代に分かりました。地殻やマントルの形状がその答えです。簡単に言えば、標高が高くても、鉛直線偏差は小さいということです。この事実が判明してからは、科学者が新たに共有すべき知識として、その均衡はアイソスタシーと呼ばれることになりました。

アフリカはインドどころではありませんでした。ヨーロッパの地理関係者は全く何も掴んでおらず、苦労が絶えませんでした。現地の人々は川の位置関係さえ把握していなかったため、ナイル川、コンゴ川、ニジェール川といった大河の水源を確定することに始まり、流路を正確に捉えるための地道な作業に地図を作るための時間が割かれました。